『常世論』

最近、気のせいか、死や医療をテーマにしたドラマなり、映画とか、そうしたものが増えてきている気がする。

昔から生と死に関して、哲学とか、文学を読んで考えてきたこともあり、一つの疑問を持っていた。
常世を「とこよ」と読むべきか、「とこつよ」と読むべきなのかということである。読み方云々よりも、当然、学術的な意義や由来をむしろはっきりさせたかった。
10代のある日、大学でも講師をしたことのあるらしい国語の先生に尋ねたことがある。先生は少し考えて、「とこよ、でしょう。とこつよの方が古いでしょう。とこよの方が良いと思われます。」という返事だった。広辞苑でも、常世を常世の国と同義として、下記のように定義している。

とこよ‐の‐くに【常世の国】
古代日本民族が、遥か海の彼方にあると想定した国。常の国。神代紀上「遂に―に適(イ)でましぬ」
不老不死の国。仙郷。蓬莱山。万四「吾妹児(ワギモコ)は―に住みけらし」
死人の国。よみのくに。よみじ。黄泉。(古事記伝)

また、とこつよも、常つ国として出てくる。
とこ‐つ‐くに【常つ国】
死の国。よみのくに。黄泉。雄略紀「謂(オモ)はざりき…―に至るといふことを」

『常世論』に見られるように、常世(とこよ)については、文化人類学や民俗学など、幾つもの探究がある。沖縄などに伝わるニライカナイのことであるとか、あるいは桃源郷なり、ニルバーナのことであるとか、諸説ある。各伝来される諸文化からの影響も多分にあると思われる。つまり、「あの世」のことであり、時に理想境を意味していることもあるのかもしれないが、少なくとも「この世」ではない。

ところで、ひところ、臨床における哲学,あるいは死生学と呼ばれる研究分野が注目を集めたことがある。勿論、今もというか、一層研究が進んでいる訳だが、これまで日本ではそうした「死」を通じて、生きることの意義を真剣に考える分野が欠落していた可能性がある。しかし、これまで空海などの思想や、古来からの死生観をみれば、必ずしも日本人が死と生について、全く向き合わないで来たということでもない。

死生学は、タナトロジーと英語では表現されている。タナトスというギリシャ神話における死を司る神を示す言葉から来ている。タナトスは、精神分析における死への衝動としても使われる専門用語でもある。タナトスの母親が、夜を司る女神であり、双子の兄弟が眠りを司るヒュプノスである。つまり、夜を基点に死と夢は、対峙している。

タナトロジーが示すのは、「死への準備教育(デス・エデュケーション)」である。ハイデガーが指摘するように、人間存在は、「死への存在」である。「死を通じて、生きる意義と生命の尊厳」を考え、教育しようという趣旨である。死の教育を通じて、生きる意味やいかに生きるべきかの問いを自らの探究の中で考えることを教える必要があると思う。このことは、中高生の倫理の授業でも良いから、もっと一層取り入れられるべきである。まして、この昨今、イジメや暴力による殺傷事件が多発してきている中、死と生に対する基本的な教育は、まさに必要だと思う。死や医療をテーマにしたドラマなり、映画がそうした役割を担っているのであれば良いが、そうでもない。切なさを伝えるだけでは、今一つな気がする。